脳の地図

(1)脳神経学者のアントニオ・ダマシオは、脳の地図作りの過程を明快に解説して、人の脳は生まれつき地図製作者という。

「人の脳の姿は、ごまかしのない地図を作ることである。地図作りは複雑な営みの根幹で、地図作りと生命の営みは手に手を携えていく。脳が地図を作るとき自ら情報を伝える。地図の中の情報は、無意識に使われて、効率的な運動行動になる。最も望ましい結果は正しい行動を取ることにより生存することを考えることだが、脳は、地図を作るとき、心の主要な流れであるイメージを作り出す。最後には意識が地図をイメージとして経験し、イメージを操作し、イメージに論理をつけるようにする。

人が他人や機械や場所などの対象と相互作用するとき、地図が脳の外から内に向かって作られる。この相互作用という言葉は言い過ぎにはならない。地図作りを思い起こすが、地図作りは、上述のような行動を向上する基本である。先ず行動の設定に起きることが多い。行動と地図、動きと心は、終わりのないサイクルをなす。心の誕生は組織化された運動を脳が制御することに帰せられるというロドルフ・ライナスの考え方は示唆的である。

地図はまた自分の脳の記憶の銀行から対象を回想するときにも作られる。地図作りは止まることはない。眠っているときも夢を見れば行なう。外のどんな対象でも、外のどんな行動でも、時間と空間の中で対象や行動の関係の全てに、相互に、体、脳、心の唯一の持ち主、有機体として知られる母船に関係して、人の脳は地図を作る。人の脳は生まれつきの地図製作者で、地図作りは、脳がある体の中で体の地図作りと一緒に始まった。

人の脳は無数の種類の模倣者である。脳の外にあるどんなものでも―皮膚から内臓までの体そのもの、周りの世界、男、女、子供、猫、犬、場所、暑い天気、冷たい、柔らかな繊維、荒い繊維、大きな声、柔らかな声、甘い蜂蜜、塩魚―脳のネットワークの中に模倣する。

いいかえれば、脳には、脳以外の物や出来事の構造面を表象する能力がある。その中には手足や写真機のような有機体や構成で行なわれる活動が含まれる。地図作りがどう始まったかは、行なうより言うが易しい。脳の外から内への受身の移転でも、単なるコピーでもない。いろいろな感覚で捉えられ集りには、発展の早期から利用可能な、脳の内部から提供された積極的な寄与がある。脳は、使われずに長期間経つ、何も書かれていない石盤という考え方である。前述のように、その集りは、運動の設定の中に起きる。(アントニオ・ダマシオ)(p63)
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脳の地図作り

(2)アントニオ・ダマシオは、人の脳の地図は、日夜、修正改定されていることをいう。さらに記憶も、電子掲示板のように、電球やダイオードで点滅する光のパターンのように描かれるという。

「脳の地図は、古典的な地図製作者のように静的なものでない。脳の地図は敏活で、それを養う神経の中で生じている変化を反映して刻一刻と変化しながら、人の体の中や周辺の外界の変化を反映する。脳の地図の変化はまた、人自身が絶えず動いていることを反映する。対象から離れたり、対象に近づいたりする。対象に触れ、ワインを味わい、消え、音楽を聴き、それが終わる。人自身の体が違う情動に従って変化し、違う感情が生じる。周辺環境の全てが脳に、永久に自発的に、人の制御下で修正をする。それにしたがって、対応する脳の地図も変化する。(p65)

視覚地図に関係して脳の中で進んでいる現在の類推は、電子的な広告掲示板の一種の絵に見られる。そこでは活動的、非活動的な光の要素で描かれるパターン(電球または光のないダイオード)が描かれる。電気地図への類推は、非活動的要素に対する活動的要素の配分を変えるだけで簡単に迅速に変わる。活動の各配分は時間の中でのパターンを構成し、目に見える皮質の同じ切片の中の活動の配分の違いが、十字か四角か、顔かを連続でも推測も描写される。地図は、光の速さで描かれ、書き換えられ、重ね描かれる。

同じ種類の「描写」が、網膜といわれる脳の精巧な前哨地点でも生じる。それはまた地図になる用意がある四角な格子を持っている。光子と呼ばれる光の小片が特定のパターンに相応する特別の配分で網膜に当たると、そのパターン、十字か円か、経過的な神経地図を作る。当初の網膜地図に基づく追加の地図は、神経システムの続く段階で形成される。これは、網膜部位として知られる網膜での地理的関係を維持しながら初めの視覚皮質に達しながら、網膜地図の各点での活動が鎖に沿って信号を送るからである。(p65)

地図作りは視覚パターンだけでなく、脳が作るあらゆる種類の感覚パターンに当てはまる。例えば音の地図作りは耳の網膜に相当する場所で始まる。(p68)
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地図と心 イメージ

(3)アントニオ・ダマシオは、心は地図化されたパターンがイメージとなったものであるという。

「心は脳の地図作りの絶え間ないダイナミックな素晴らしい結果である。地図化されたパターンが、われわれ意識ある生き物の景色、音、触感、匂い、味わい、痛み、楽しみ、そのようなもの―簡単にいえばイメージを構成する。この心の中のイメージは、体の内でも外でも、抽象でも具体でも、現に存在するものでも過去の記憶ものでも、何事でも全ての事の脳の瞬間的な地図である。

この考えを伝えるために、私が使っている言葉は、簡単な概略だが、その書かれたバージョンを頁の上で実行する前に、初めに見え、聞ける、身体感覚の音楽や最小言語のイメージに形づくられる。同じように、今眼の前にある印刷され書かれた文字は、脳の活動が他のイメージや記憶の種類を呼び起こす前に、あなたが言葉(書かれた文字の見える形)に加工する。この言葉でないイメージは、言葉に一致する概念を精神的に示すものである。精神的な瞬間の背景を作り、体の状態面の大部分を意味する感情はイメージである。どんな感覚的様式でも、認識は、脳の地図製作の結果である。(p70)

イメージは、実体の物理的属性をその空間的、時間的関係をその行動とともに表現する。おそらく脳の地図作りそのものの地図を作る結果であるイメージは、実際には全くの抽象である。それらは対象が起きる時間的、空間的パターンを描く。対象の空間的関係や動きは速度や弾道などである。イメージの中には、作曲や数学の描写に道を見つけるものもある。

心のプロセスは、こういうイメージの絶え間ない流れである。その幾つかは現実に脳の外で今の作業に呼応するものもあり、回想するプロセスで記憶から再構築されるものもある。心はイメージである。永久に割合が変わる微妙な流れの現実のイメージや回想されるイメージの組み合わせである。心のイメージは外界や体の中の出来事に相応するとき確かに相互関係する傾向がある。それは人が論理的と定義する物理学や生理学の法則に自ら支配される。(p70)

まとめると、イメージは、対象と体の物理的な相互作用の間に生じる体と脳の中の変化に基づいている。体中に張り巡らされたセンサーに送られる信号が、有機体と対象との相互作用の地図の神経パターンを作る。この神経パターンは、通常は体の特定の領域から来る信号を受け取る脳のさまざまな感覚領域や運動領域の中に経過的に形づくられる。経過的な神経パターンの集合は、相互作用によって集められた神経回路の選択から作られる。人はこれらの神経回路を脳の中にあらかじめ存在する建築ブロックとして考えることができる。(アントニオ・ダマシオ)(p73)
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心を作る作業

(4)人の脳はなぜ地図作りをするか、ダマシオは、あらかじめ危険やチャンスを察知し、生きていく上で時間とエネルギーを節約するためだという。

「脳の地図作りは、生命のプロセスの営みと制御専用のシステムの機能の際立った姿である。脳の地図作りの能力は、その営みの目的に役立つ。簡単なレベルでは、地図作りは対象の存在を探し、対象の空間での位置やその弾道の方向を示す。地図作りは危険やチャンスの察知に役立つ。危険を避け、機会を掴むのに役立つ。心が全ての感覚的な種類の複数の地図を活用し、脳に外界の宇宙に関する複数の観点を作り出すとき、外界の対象や出来事にヨリ正確に反応できることになる。さらにいったん地図が記憶にコミットし、イメージの回想に戻ることができれば、あらかじめ計画し、ヨリ良い反応ができる。(p72)

心を作る作業は高い選択的なことということが出て来る。中央の神経システムの全てがこのプロセスに画一的に関係しているということではない。関係する領域もあり、関係しない領域もあるが、主要なプレヤーではない。大量の作業をする領域もある。最後に詳しいイメージを提供するものもある。他のものは、体の感覚のような簡単だが基礎的な種類のイメージを提供する。心を作ることに関係する全ての領域は、非常に複雑な信号の統合を示すような相互の結びつきの高い違いのあるパターンを持っている。

心を作る作業に、ある領域のセットは寄与し、ある領域のセットは寄与しないに反して、どんな種類の信号を神経が生み出さなければならないかは示すものでない。神経セットの中で連携するパターンや、発火する神経の周波数や強さを特定するものではないが、心を作ることに関係する神経に必要な繋がりのある一覧図の面について語っている。(アントニオ・ダマシオ)(p86)
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大脳のない子どもたち

(5)一般に無脳症と知られ発展する欠陥のものと分けて、大脳皮質の傍らで他の構造を傷つける「水頭性無脳症」として知られる。これに冒された子どもは数年間、思春期まで生きる。しばしば「植物状態」と見なされるが誤りである。この子どもたちは普通、類型化されてしまう。

この子どもたちは植物状態どころではない。逆に目覚めてもいるし活動もする。限界はあるが決して無視できない程度に、介護してくれる人と会話し、世界と相互作用する。この子どもたちは植物状態の患者または無動無言症がそうでない方法で公然と覚えられてしまう。この子どもたちの不幸は、大脳皮質がなくても、まだ生まれ得る種類の心の中に、まれな窓しか提供されないことだ。

この子どもたちはどういうふうに見えるか。この子どもたちの運動は非常に限られているが、手足を自由に動かせる。顔に情動を表現する。普通の子どもが―玩具やある種の音や―くすぐると微笑するように刺激に微笑もする。この子どもたちは顔をしかめ苦痛の刺激から身を引く。―例えば日の光が射す場所に向かって這い出し、日なたぼっこして明らかに暖かさを好むなど、切望する状況や対象に向かって動く。刺激に対して適切な情動の反応に続いて期待する種類の情動を外に表わして、喜ぶように見える。

この子どもたちは、この子どもたちの方を向き、この子どもたちに触れる人に、途切れ途切れだが、頭や目を向け、顕著な人を好むことを表わすことができる。見知らぬ人を恐れ、見慣れた母親や介護してくれる人の近くでは幸せそうに見える。音楽のように好き嫌いが明瞭なものはないが、この子どもたちは、他の音よりもある音の断片が好きである。違う楽器の音、違う人の声を好む傾向がある。また違う作曲スタイル、違うテンポに反応する。情動の状態を反映して、顔つきがよくなる。

要するに彼らが一番喜ぶのは、触れられ、くすぐられるとき、好きな音楽の断片が聞こえるとき、目の前で好きなおもちゃを見せられるときである。どのくらいかを知る方法はないが、明らかにこの子どもたちは見たり聞いたりする。聞くことは見ることより勝っている。(アントニオ・ダマシオ)(250108)

心の中の体

(6)脳の地図作りの能力は、その解決に基幹的要素となる。要するに人の脳のような生来複雑な脳は、多かれ少なかれ詳細に、体そのものを構成する構造の明らかな地図を作る。脳はまた不可避的に、体の構成によって当然と思われる機能的状態を地図化する。

今まで見たように、脳の地図は、精神的なイメージの基礎なので、地図を作る脳は、心のプロセスの中に内容として体を文字通り紹介する力を持つ。脳のおかげで、体は心の自然のトピックになる。(p89)

しかし体から脳への地図は奇妙にも体系的に見過ごされていた面である。体は地図化されるものであるが、地図の実体である脳とは決して接触しない。正常な環境下では、それらは生まれるから死ぬまで互いに引き寄せられる。体の地図のイメージは、永久にその出身である体に影響する方法を持っている。

この状況は独特である。体の外の対象や出来事の地図化のイメージと並行するものは何もない。外の対象や出来事に直接に影響することは決してない。このことに協調しないどんな意識の理論も失敗する運命にあると私は思う。(アントニオ・ダマシオ)(250108)

「だいたい」

(7)ダマシオの脳の地図作りが「だいたい」だというのは、電子掲示板の表示が「だいたい」だというのと同じで、メッシュの細かさは、人が感知し、認識し、記憶する精巧さはだいたいそんなものだろうというから、人が感知し認識できないものが、この世には実にたくさんあるのだろう。

「体から脳への背後にある結びつきの理由はすでに述べてきた。生命を営む作業は体を営むことからなる。その営みは脳の存在から―とくにその営みを助ける神経回路を持つことから正確さと効率性が得られる。神経は体の他の細胞の中にある生命の「だいたい」で、生命の営みの「だいたい」である。その「だいたい」は双方向の信号を要すると私は言った。神経は他の体の細胞の上で化学的なメッセージまたは筋肉の興奮を通じて動くが、それらはその作業のためにいわば現われると思われている体そのものからの鼓舞が必要である。(p90)

古い肉体と神経探針の組合せは体の境界を構成する。世界から降って来る信号は、脳に入るために体の境界を渡らねばならない。単に脳に直接入ることはできない。

この興味のある編成のために「体の外の世界の表現は体そのものを通じてのみ脳に入ることができる」、つまり体の表面を通じてのみ心にやって来る。体と周りの環境は互いに相互作用し、その相互作用で体に生じる変化は、脳の中に地図化されるのである。心は脳を通じて外の世界を学ぶことは真実だが、脳は体を通じてのみ情報がもたらされるというのも同じように真実なのである。

脳の体に「だいたい」の第2の結果は、記すべき価値がある。その体を統合する方法で地図化して「自己」になる重要な構成を造る。体の地図化が意識の問題を説明する鍵であることがわかる。

最後に、以上のことは全く異例なことではないかのように、体と脳の密接な関係は、人の生命の中心である他のこと、つまり自発的な体の感情、情動、情動的な感情を理解する上で基本である。(アントニオ・ダマシオ)(p90)
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体と脳

(8)体と脳の伝達は、体から脳へ、脳から体への双方向であるが、伝達の2つの方法は非対称的である。体から脳へは、薬品でも神経でも、脳が体に関するマルチメディアの記録を作り維持するようにする。

体の構造や状態に生じている重要な変化を脳に体が警告するようにする。内部の環境―全ての体の細胞が生きている水桶、血液の薬品はその表現である―もまた神経でなく薬品の分子を通じて脳に信号を送る。そのメッセージを受け取るように設計された脳の部分に直接打ち込む。

脳に送られるメッセージの範囲はきわめて広範囲である。それには平滑筋(例えば動脈、消化器、気管支を構成する筋肉)の収縮と膨張、体のどの部分にもある酸素や炭酸ガスの量、体温やpH、毒性化学分子の存在などが含まれる。いいかえれば、脳は、それまで体の過去の状態がどうであったか、その状態で起きる修正について語れることはわかっている。後者が重要なのは、脳が生命を脅かす変化に正しい反応を作れるかどうかである。

一方、脳から体への信号は、薬品でも神経でも、体を変える司令で構成されている。これは体がどう作られたか、今体をどう見るべきかを脳に言う。脳は体に、その竜骨筋を保持することさえどうすべきか言う。脳は、求められればいつでも、情動の状態をどう構築するかを言う。

体と脳は、ずっと相互作用のダンスで交渉している。脳で実施された思考は、体の中で実施される情動の状態になる。体は脳の景色を、そうして思考の基礎を変える。脳の状態は、ある精神状態に相応し、生じるべき特定の体の状態の原因となる。体の状態は、そのとき脳の中に地図化され、今の精神的状態と協調する。

そのシステムの脳の側での小さな変更は、体の状態に主要な結果をもたらし得る(ホルモンを出すことを考えよ)。同様に、体の状態の小さな変化(壊れた歯の入れ歯を考えよ)は、いったん変化が地図化され、鋭い痛みが認識されると、心に主要な効果を及ぼす。(アントニオ・ダマシオ)(p95)(250108)

かのようにループ

(9)ダマシオが脳の地図に体のかのようにがあるという指摘は、画期的であろう。森鴎外が「かのやうに」でいったことを、脳の地図作りでも証明したようなものである。

「体の「かのように」ループの仮説が初めて世に出た当時、私に有利に集まった証拠は状況証拠だった。作りつつある体の状態を脳が知ることは意味がある。この種の「事前の刺激」の長所は遠心性コピーの現象の研究から明らかである。遠心性コピーは、その次に来る動きのあり得る結果の視覚構造の情報を伝えるために、空間的な置き換えという言葉で、運動構造に、ある動きの実行を命じるものである。

例えば視覚の末梢で眼が対象に向けて動いているとき、脳の視覚領域は薄れることなく、新しい対象にスムーズに向かうように差し迫った動きをあらかじめ警告される。いいかえれば、視覚領域は、その動きの結果を期待する。実際に実現しないで、体の状態を想定することは処理時間を短縮しエネルギーを節約する。「かのように」ループの仮説は、特定の情動の喚起を担当する脳の構造に結びつけさせることを残す。その構造の中で情動に相応する体の状態が地図化される。
(p101)

体と心の脳
人は四六時中、心の中に体を持っている。潜在的に使い得る感情の背景を常時提供してくれるが、比較的かなりバランスのある状態から出発するときにだけ気づくもので、愉快から不愉快までの範囲で登録し始める。

人が心の中に体を持っているのは、有機体の統合を脅かし、生命を傷つける全ての状況で支配する行動を助けるからである。その特定の機能は脳に基づいて古い種類の生命調節の上に描く。これは単純な体から脳への信号に、生命の営みを助けるという意味の自動的な調節的な反応への基本的な表われに戻るものである。

しかし、われわれが単純に驚かざるをえないのは、こんな粗末な始めで完成されたことである。最も洗練された秩序の体の地図が意識ある心と有機体の外界の表現の自己の過程の両方を補強している。内部の世界は、人の能力が人の内部世界ばかりか外の世界を知る道を開けたのである。

生きている体は中心的場所である。生命調節(ホメオスタシス)は必要と動機である。脳の地図は、無色の生命調節を、心ある調節に、最終的には意識ある心のある調節に変身させるエンジンであり、作動者である。(アントニオ・ダマシオ)(p106)(250108)

ミラーニューロン

(10)ダマシオの「かのように」がミラーニューロンの存在と符合するという指摘も、目が覚めるように画期的である。

「いわゆるミラーニューロンは実際、究極の体の「かのように」装置である。ミラーニューロンのあるネットワークは、私が体の「かのように」ループのシステムという仮説を概念的に達成する。この脳の体の地図の中での体の状態の想定は、有機体の中で実際には生じていない。

ミラーニューロンで想定される体の状態はその人の体の状態ではないということは、この機能の類似性を強める。複雑な脳が誰か他人の体の状態を想定できるなら、自分自身の体の状態を想定できるはずである。想定を担当する同じ身体感覚構造で正確に地図化されるので、有機体の中ですでに生じた状態は容易に想定するだろう。私が示唆するのは、初めに脳自身の有機体に適用されたかのようなシステムがなければ、他人に適用された「かのように」システムは発展しなかっただろう。

このプロセスに関係した脳の構造の本質は、体の「かのように」ループとミラーニューロンの作用との間に機能の類似が指摘される。

ミラーニューロンの存在の説明は、自分自身を比較される体の状態に置いて、他人の行動を理解する、そういう神経が果たし得る役割を強調した。他人の中に行動を目撃して、人の体の感覚の脳は、自分自身が動けばそうなると思う体の状態を受け入れる。全ての可能性でそうする。受身の感覚パターンでなく、運動構造の活性化で、―行なう準備ができたがまだ行なわれていない状態で―場合によっては、実際の運動活性化でそうする。

こういう複雑な生物的なシステムはどう進化したか。このシステムは体の「かのように」ループのシステムから進化したと私は思う。長い間その複雑な脳が自分自身の体の状態を想定してきた。これは明らかに直ちに長所、速やかなエネルギーの節約のある体の状態の地図の活性化となる。これが次に、認識の戦略や関係する過去の知識を関連させて。最後に、体の「かのように」ループは、精神的表現である他人の体の状態を知ることに由来するので、他人に適用され広がることになる。要するに、各有機体の体の「かのように」ループのシステムは、ミラーニューロンの先駆者であると私は思う。

優れた俳優はむろん、知ってか知らずか、この装置をあからさまに使っている。偉大な俳優の幾人かが、ある人物像を、その構成の中に作る方法は、見ても聞いても、他人を表現する力の上に描き、それに体の中で血肉を与える。それが役割に宿るものとは一体どういうものかである。移行の過程が予想外の発明の詳細で飾られているとき、天才の演技になる。(アントニオ・ダマシオ)(p102)
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