よき友三人と「雨にも負けず」 

  徒然草第百十七段には「よき友、三つあり。一つには物くるる人。二つには医師(くすし)。三つには知恵ある友」とある。この三人は、いわばケアをしてくれる人々だ。ケアとは、他者への気づかい、思いやり、手当や介護、手助けのことで、ケアの根底にあるのは、動植物を含み他者への優しさだろう。医者は少なくとも患者のケアに日夜、明け暮れる。昔から「医者の不養生」といわれるように、自分の事より先ず患者のケアを優先させるのを原則とする。

  この三人の「よき友」は、ひょっとしたら他人ではなく自分自身の中にいる自分のことかもしれない。つまり一番目の「物くれる友」とは、自分に対し食べ物はむろん、心にも栄養を与えること。物とは、いわゆる物だけでなく、今でいうケア、サービスや手助けを含むだろう。自然の中に入り、花を見、鳥を聞き、歌を唄い、本を読み、自分を養う。二番目の「医者」も、自分自身の中にある免疫力や自然に治す力に頼ることかもしれない。三番目の「知恵ある友」も、問題が生じている時、自分で工夫し、知恵を絞り、情報を集め、アイデアを出し、解決策を捻出することかもしれない。知恵とは情報一般をいうのかもしれない。

  徒然草の「悪い友」は「高く、やんごとなき人」、「若き人」、「病なく、身強き人」、「酒を好む人」、「たけく、勇める兵」、「虚言する人」、「欲深き人」の七人。これらの七悪友はいずれも自己中心的で、他人へのケアは二の次、という者ばかり。
  「高貴な人」は身分が高く、地位も高い人。こういう人はだいたい自己本位の、高慢で狡猾な人が多い。他者のケアなど、あっても口先だけ。「若い人」は、常に自分の事で精一杯。「身体壮健な人」は概して無神経。他人も自分と同じように健康だと思いこんでいる。人の痛みを知らない。人は自分が病気をして初めて、世の中に病気で苦しむ人がこんなにも多いかと気づく。自分がケアされる立場になって、ケアの尊さを知る。「勇猛果敢な人」は傲慢。自分の手柄を、いの一番にあげることに執心する。「酒飲み」はいうに及ばず、「欲張り」は、自分の欲望を満たすことだけが念頭にある。他者のケアなど、どこ吹く風。「ウソつき」は厚顔無恥。ウソ八百を平気で並べ立て、徹頭徹尾、他者を瞞すことに専念する。ほとんどサイコパスに近い。これら兼好法師のいう七人の「悪友」も実は、他人ではなく自分自身の中に潜んでいる自分なのかもしれない。つまり「何々の人」というのは自分の中で「地位を得た時」、「若い時」、「健康な時」、「欲張りの時」、「ウソつきの時」とか言い換えられるかもしれない。
  普通の人は誰でもどんな時も必ず利己的な行動や考え方が頭をもたげて来る感じは抱く。そんな時、そんな考え方や行動を友にしてはいけない、同調してはいけないという難題を投げつけられているのではないか。

  * * * 
  ケアで思い起こされるのが宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩である。この詩の中に「あらゆることを、自分を勘定に入れずに」という言葉がある。この言葉は、他者をケアする心の持ち主かどうかの究極の言葉であるばかりか、その人が本当はどういう人物かを判定できる基準になる言葉だろう。どんなに身分や地位が高くても、どんな衣装を身に着け、どんな仮面をかぶっていても、どんな上手な言葉をつかっても、自分を勘定に入れる人は「巧言令色、少なし仁」としか言いようがない人物だろう。
  「東に病気のこどもあれば、行って看病してやり」、「南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくともいい」といい、まさに他者をケアする医者のような役目を果たすことも「自分を勘定に入れずに」いればできる。
  「ほめられもせず苦にもされず」、みんなに「でくのぼう」とよばれても「いつも静かにわらっている」ことも「自分を勘定に入れずに」いるからこそできる。

   およそ世の中の争い事や犯罪や戦争などが生じる原因は全て、個人でも国家でも「自分を勘定に入れ」るから起きる事ではないか。こういう事を引き起こす人には他者へのケアなど最初からできない相談だ。個人の持つ様々な悪意や、怒りや恨み、嫉妬や羨望、憎しみや悲しみなど色々な強い感情が生まれ、そういう激しい感情や悪意に動かされるのも、自分を勘定に入れるからではないか。

  「西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い」手伝うこともでき、「北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと」いうケアも「自分を勘定に入れずに」いるからこそできるのだろう。

  「野原の松の林の蔭の、小さな萱ぶきの小屋にいて」「一日に玄米四合と、味噌と少しの野菜を食べ」る清貧さは、きれいなマンションに住み、豊かに暮らすのとは程遠い、むしろ対極の極致にある暮らしぶりだろう。自分とは「私」あるいは「我」のことだろうから、夏目漱石がいう「則天去私」も「自分を勘定に入れずに」いればできることかもしれない。
   この詩の初めは「雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けず」だが、実際は、賢治自身は、雨にも風にも雪にも夏の暑さにも負ける人だったかもしれない。賢治自身がまだ、「欲はなく、決して瞋らず、いつも静かにわらっている」境地に達していないと自覚して書いた詩なのかもしれない。この詩によって、時々は世に憤りを感じることがあったかもしれない自分を戒め、自分に言い聞かせているのかもしれない。

  この詩は最後に「さういうものにわたしはなりたい」と結んでいる。私はこの詩の最後のこのくだりを読むたびに、胸がつまる。いつも詩人賢治が数百の「南無妙法蓮華経」の文字を書いて、埋め尽くしていた紙片を思い出して、こんな優しい詩人でも、こんな厳しい修行を自らに課しながら、この詩を書き留めたのかもしれないと思う。
  (171205)

星の王子さまと風の又三郎

   昨年七月に出た文庫本で「星の王子さま」(内藤濯訳)を再読した。幾度読んでも名訳だと思う。翻訳とはこういうものかと感動する。なぜ名訳なのか。この文庫本の「訳者あとがき」にあるように「音の言葉あっての文字の言葉」を訳者が意識して心がけたことが名訳となる理由の一つかもしれない。

  「じろじろ、カラカラ、ヨボヨボ、オズオズ、ぐずぐず、ごちゃごちゃ、ぺろり、ホロリ、どぎまぎ、もじもじ、ドキドキ、コトコト、パチパチ、ノラクラ、ポッカリ、カチカチ、からから、おちおち、キラキラ、ごうごう、ふさふさ、ギイ、ごくごく、しみじみ、むっと、ひょいと、ぱくっと、ぼうっと、すうっと、キラッと」等々。原文のフランス語にはほとんど見られないオノマトペ(擬音語)をほぼ各頁に用いて、この日本語訳を一段と輝かせ、いっそう親しみ深くさせていることかもしれない。

  オノマトペは日本の童話や童謡、詩や俳句に数多く登場する。
例えば北原白秋の「あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかい うれしいな。ぴっちぴっち ちゃっぷちゃっぷ らんらんらん」など典型で、言葉に生き生きしたリズムを与え、日本語の語彙を豊かにしている特徴かもしれない。

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  オノマトペは宮沢賢治の童話に非常に多い。
「どどど、どどうど、どどうど、どどう」で始まる「風の又三郎」には「がたがた、さらさら、ぐうーっ、ざあーっ、カンカン、ざわざわざわっ、キインキイン、ごろごろごろ、だぶだぶ、すぱすぱ、すたすた、どんどん、びちゃびちゃ、きょろきょろ、きろきろ、くつくつ、ギラギラ、ぱたぱた、カンカン、ぴょんぴょん、むくむく、ぬるぬる、わあわあ、ぱしゃぱしゃ、ぼちゃぼちゃ、ごぼごぼ、ひゅうひゅう、ざっこざっこ、どっこどっこ、がたがた、がくがく、ぶるぶる、こちこち」等々。

  オノマトペの頻度は他の作家の童話をはるかに超えている。加えて、風の又三郎や嘉助や耕助らが話す言葉がみんな東北の方言だ。方言は、まさに「音の言葉」だ。オノマトぺと方言の両方で、この名作を宮沢賢治の代表作にしているのかもしれない。

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  オノマトペは芭蕉の俳句にも連句にもある。
「ほろほろと山吹散るか滝の音」、「ひやひやと壁をふまへて昼寝かな」、「あかかと日はつれなくも秋の風」「ひらひらとあぐる扇や雲の峰」、「ひょろひょろと猶露けしや女郎花」、「むめが香にのっと日の出る山路かな」等々。俳句はむろん日本語の理解には、言葉を支える日本の各地域の気候や風土、方言や文化の理解が不可欠にちがいない。

  「鎌倉に鶴(つる)がたくさんおりました」。
昔、若いドイツ人の物理学者が日本に遊びに来て俳句を作ったと自慢したという句らしい。「頼朝時代などには鎌倉へんに鶴が沢山いたが、今ではもう鶴などは一羽も見られなくなってしまった感慨を十七字にした」という(寺田寅彦「俳諧瑣談」)。たしかに五七五だが、この若いドイツ人が日本語のオノマトペを知っていたら俳句はぐんと良くなったかもしれない。

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  翻訳は結局、日本語の語彙の問題ともいうが、物語や著者への共感がなければ翻訳はできないだろう。「星の王子さま」は「童話を超えた童話」で、むしろ大人向けの「高度の童話」という訳者内藤濯氏は著者サンテクジュベリに対し並々ならぬ共感を抱く。
  「おとなって、ほんとにへんだな」とか「一ばんたいせつなものは目に見えない」と繰り返す言葉に共感し、「月とスッポン」とか「おれ、毎日同じことして暮らしているよ」という訳語を見出し、名訳にしたのではないかと思う。(171122)

ダークエネルギーと多様性

  「三年寝太郎というのは、おかしな名前だが、何しろ、いつ見ても、ごろりと寝て、天井ばかり眺めておる」「ガチガチ働いて金をためるのは、俺の性分に合わん」といい「ひとつ知恵をめぐらして、寝たまんまで、どでーんと大もうけをする」という話だ。
  今うだつが上がらないと嘆く人も悲観する必要はない。「運は寝て待て」という。運は不合理で不確実だが、宇宙に充満するダークエネルギーのせいで、いつ世の中の風向きが変わるか分からない。勤勉に軌道を踏み外さないよう努力するだけが能でない。夢だけ見て道草をして怠けていても運が向いてくる事がある。

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  地球は自転しながら太陽の周りを公転している。その間に太陽光線を浴びて温められる。地球が適当に傾いているおかげで季節も変化する。風向きも変わる。
  道端の雑草を見ると、それぞれ驚くほど季節を知って咲き出す。曼珠沙華は彼岸が近づくと急に細い茎を伸ばし、赤い花を咲かせる。すばらしい体内時計を持っている証拠だろう。
  「天災は忘れたころに来る」という寺田寅彦博士の名言通り、先々週9月26日、南海トラフ大地震の予知は困難、と中央防災会議が発表した。
  地震、津波、噴火など天災やリスクの発生も、自然界は様々な局面で均衡が崩れる殆ど全ての事象が、ダークエネルギーの作用で起きるためか、予知も予想も難しいようだ。

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  孔雀は派手な鳥の変り種だ。大きな羽で目立ち過ぎ、返って危険で不便に見えるが、様々な環境や気象の変化にもちゃんと生き残った証明だ。わざと派手な姿を外敵に見せつけ、どんな敵にも俺は平気なんだとアピールして結果的に、雌の気も引く象徴にもなる。
  様々な風向きの変化に生物はどう対処してきたか。一般的には多様性で適応してきたようだ。多様化に励んだ雑草はなかなか絶滅しない。変種は偶発的な産物だが、生命のマンネリ排除に有用な革新だ。どの変種が将来の風向きの変化に適するか変異の時点では全く未定だが、多様性は変化に適応し生き残る賢い戦略だ。

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  生命は神秘的で奇跡的、偶然に誕生する。遺伝子の突然変異で色々な変種が生まれ多様化を実現させた。変種を生み出す生物の種ほど多様性に富む。変種の多様性が危機を救う役割を担いバックアップになる。多様性こそリスク回避に必要な戦略で多様性が不十分な種はリスク回避も困難だ。
  人類も霊長類の変り種で、周囲の環境や気象の変化に適応し生き延び、飢饉や疾病のリスクにも決定的な危機を回避してきた。
  幾多の重要な発明や発見も職人技も風変わりな先人が始めた事が多いだろう。松茸やトリュフなど珍味な食べ物も、よほど風変わりな人が見つけた物か、飢饉で食べ物にひどく困った時、食べ始めた物かもしれない。ナマコや蒟蒻(こんにゃく)は今でも人は食べる。

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  風向きが変わると、今までの仕組みが、うまく動かなくなる。そういう変化に、どんな変種でも残しておく必要がある。何事も一元化は合理的で、得策のように見えるが案外、将来のリスクに弱い。得意分野に特化し変種を排除した分業は破綻しやすいという。従来の延長線上にある技術や商品よりも、脇道にある変種が生き残るのかもしれない。
  この半世紀間の変化は著しい。
  市場も多様化した。1989年ベルリンの壁が崩壊し社会主義が終焉した東欧でも、オプション市場や金融先物市場が発展した。

  技術も多様化した。通信は目覚ましく、従前の方法の予測や予想が外れる理由の一つだ。半世紀前は電話や郵便、手動のタイプライターや計算機が主流だった。映画、テレビの時代から急速にパソコンが普及し、今やインターネット、メール、スマホへと激変した。

  企業も多様化した。アップル、グーグル、アマゾン、フェースブック等々誰も予想しなかった新顔が次々に登場した。多様性こそ将来の競争に生き残る企業や市場の戦略かもしれない。

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  変種は多様性の母。今栄えている種が今の環境に最適とは限らない。将来どんな災難やリスクが生じるか、いつ風向きが変わるか分からない。危機に際し、どの変種が生き残るか、変種は予想していない。幾つかの変種は、どの季節にも偶然に生まれ、風向きの変化に適応する救世主になるかもしれない。地球に生まれた全ての変種は適応し生き残るチャンスがある。

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  先週9月30日、NHKの「人体」という番組で、今までは人体の司令塔は唯一、脳にあると思ってきたが、主要な内臓がそれぞれ司令塔として独自のメッセージを発信し交換しているという。これを敷衍して、広く生態系を一つの組織と考え、生態系の構成員の全てがそれぞれメッセージを発信していると思うと、少なくとも人類が一番偉い頭脳のように思い込み、振る舞うのは大きな間違いのようだ。
  地球上の70億の人々が、幼児も老人も病人も障害者も含め一人ひとりが相互に発信するメッセージこそ大事なのかもしれない。
  (171003)(10月)

ダークエネルギーと天邪鬼③

  地球上の出来事の90パーセント以上は人の目には見えない宇宙の「ダークエネルギー」の作用だという。ダークエネルギーの力は恐竜を滅ぼすほど巨大で、今後、地球にどんな天変地異やリスクが生じるか、世界の証券市場や商品相場はむろん社会変動や経済動向なども、今までの経験則は通じず、見通しや期待も外れ、予想や予測も困難ということになるかもしれない。
  宇宙から地球に無限のエネルギーが降って来ても、受け取るエネルギーは生物によって多種多様のようだ。例えば匂いは、人は犬の感覚の足元にも及ばない。鳥や魚は目が頭の両側についていて右側の景色と左側の景色が別々で、コウモリは暗闇の中でも超音波で遠近を測り平気で生きている。色の感覚や記憶力では一般に男女は著しい幅があるらしい。今挨拶したばかりの人のネクタイの色や柄を女性はよく覚えているが、男はすぐに忘れてしまう。
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  生物の突然変異や変種もダークエネルギーの作用で生まれるのだろう。人類がチンパンジーやゴリラ、オランウータンら類人猿の変種として生まれた時、とんでもない奴が現われたと類人猿たちは仰天したに違いない。初めは集団でこの「裸の猿」をいじめたかもしれないが、火を扱い道具を用い、罠を仕掛け弓矢で狩猟し、絵や文字で技術や言葉を伝え、栽培農業を始めた時、人はどんな人も天才だ、と類人猿たちも諦めたに違いない。これまで様々な苦難に耐え適応し進化し繁栄できた生物も人も多様性の一環の変種のおかげといえるかもしれない。

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  災難やリスクの頻発も、ダークエネルギーの作用で生じるのかもしれない。災難やリスクに遭遇して生き延びる可能性は変種の方が高いだろう。変種は将来の担い手、次世代が進化する必須条件、生物の多様性を保つ方法だろう。
  多様な草木や虫や魚を見れば多様性がいかに重要か分かる。新たな気象変動や環境の変化に直面しても、多様な生物であれば困難な事態に適応して生き残れるだろう。多様性こそ賢明な生物の種が生き残ってきた戦略方法。多様性の維持こそ生物の進化に不可欠な根拠といえるだろう。
  変種はみんな初めは天邪鬼だ。天邪鬼は変わり種の象徴。多様性の最先端。画一化への抵抗。従来の種の本流ではない天邪鬼を大切にする事こそ多様性を確保する方途だろう。
 
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  アイスランドの首都レイキアビックでタクシーの運転士が面白い事をして見せてくれた。島の至る所で湯煙が出ている間欠泉の穴に「呼び水」として洗剤を入れると、温泉が噴き出し人の身長の5倍にも達する。
  井戸水がポンプでうまく汲み上がらない時、呼び水を注ぎ込むと水が汲み上がる。一方に水が注ぎ入れ、隙間(すきま)が埋まると、他方の水位が上がって水が出る。呼び水がなければ濁水も出ない。

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  呼び水に伴う「同期現象」は自然現象に多くある。蝉が一斉に鳴き出す。蛍が一斉に光を点滅する。アフリカ大陸でイナゴの大群が発生する。「降れば土砂降り」という。近年は数十年に一度の豪雨が襲う。台風に限らず地震や噴火も一種の同期現象かもしれない。
  「善い事も悪い事も重なる」という。「二度ある事は三度ある」ともいう。ある災難やリスクが次の新たな災難やリスクの呼び水になるのかもしれない。これもダークエネルギーの作用かもしれない。

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  「同期現象」は社会現象にもある。ある地域での戦争やテロや暴動が引き金になって、世界のあちこちで同期現象として戦争やテロや暴動が生じることがある。日常の様々な事件や衝突、墜落事故や犯罪、いじめや自殺なども、同期現象を呼ぶかもしれない。何が呼び水になるかは分からない。ダークエネルギーの作用で、何かが「呼び水」となって、ある種の膠着状態を破り、地球的な同期現象を引き起こし、一種の「ホメオスタシス」を達成するのかもしれない。

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  同期現象は天才の出現にも見られる。鎌倉時代、傑出した僧侶が出ると、次々に立派な高僧が輩出する。元禄時代、芭蕉が発句を独立させた後、幾多の俳人を生んだ。俳句は和歌の変種だが、今や日本の国民文学ともいえる文化になった。最近ノーベル賞を貰う優れた研究者が出ると前後して多くのノーベル賞候補が続出する。一時代を画するような人物も一種の同期現象かもしれない。

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  呼び水現象は個人にもある。気分が滅入った時、体調が優れない時、アイデアが湧かない時、友人や家族の何気ないメールや電話。愛読書や詩歌に思いがけない一言半句。音楽を聞く。会社や学校を休む。散歩する。草花を見る。旅に出る。人に会う。何かが憂さを晴らし、体調を回復させ、アイデアを引き出す糸口になる呼び水効果を招くかもしれない。
  個人的な呼び水を方策として使う際も、何が呼び水になるかは分からない。時と場合によって違うだろうが、上手に使えば、心身の均衡を回復する有効な手段になるかもしれない。(170905)(9月)

ダークエネルギーと天邪鬼②

  芥川龍之介は小説『鼻』が夏目漱石に激賞されて間もなく海軍機関学校の英語の新任教官になった。当時の機関学校では勝利を謳歌する教材ばかりを使う中、彼は敗戦物語を教材に使い、広瀬武夫型の教官からひどい反感を買い「敗戦教官」というニックネームを貰ったという(『芥川龍之介追想』岩波文庫、諏訪三郎「敗戦教官芥川龍之介」)。
  時の海軍機関学校の主流が勝利の教材を使う正統派の発想は当然だろうが、その中で、あえて敗戦の教材を使う彼の発想は異端の天邪鬼だ。この調子では近い将来、日本は敗戦の憂き目を見るという時代を見通す眼があったことも示すかもしれない。
  体制派はお化けや妖怪の物語は作らない。『河童』を書いていることも芥川龍之介の天邪鬼ぶりを見事に示すものかもしれない。
  国を挙げて軍国主義一色に傾く時、敗戦の歴史を教材にする芥川龍之介の姿勢は小説の天才というばかりか、彼の天邪鬼ぶりを示すものかもしれない。

  * * * 
  毎年八月になると、前の大戦のドラマや映画がテレビに登場する。勝った戦争でアメリカ映画などは何回でも繰り返す。一方、負けた戦争で、日本は思い返すのも愉快ではないが、敗戦の歴史を繰り返し思い起すのは有益な事だ。
  なぜ敗戦に至ったのか。なぜ米英を敵にする無謀な戦争を始めたのか。なぜ日独伊三国同盟や日ソ不可侵条約を結んだのか。なぜ暗号が解読されている事に気づかなかったのか。なぜ早く止められなかったのか。
  鎌倉時代の蒙古来襲以降、幕末の黒船来航も明治の日清戦争や日露戦争も、遠い昔から負け知らずの歴史は「神国日本」に行き着く。
  官製の歴史は敗北や失敗の歴史は編纂しない。戦前の日本人は軍国主義という一つの籠に入っていたも同然。「全ての卵を一つの籠に入れるな」という。人は卵だ。どの時代にも、このリスク回避の原則と天邪鬼の発想は必要かもしれない。
  敗北や失敗の記憶を蘇らせるのは辛い事だが、徳川家康は若いころ遠州浜松の三方ヶ原で命からがら敗走した時の惨めな自分を忘れないように肖像画にして終生思い出していたという。

  * * * 
  人は物語を作って生きている。人は物語を作って、失敗や敗北を避ける。旅行も食べ物も買い物も物語で選ぶ。投資も企業も職業も様々な物語で挑戦する。スポーツやゲームも戦争も戦略という物語をもって臨む。人じゃ物語を作って、過去や歴史や記憶を振り返る。医療手術も物語を作って実行する。詐欺その他の犯罪も多くは物語に基づく。道なき荒野に道筋をつけることが物語を作る理由の一つだろう。

  * * * 
  人は物語を作って、恐怖や不安を鎮める。化け物や妖怪を物語にするのも自分の恐怖や不安な気持ちを他人と共有できれば安心するという。新聞やテレビ、映画や演劇も他人と物語を共有するための一助にする。
  人は物語を作って、新しい物事を理解する。既存の物語になく理解できない事も、人は物語にして初めて理解できる。物語は物事の解釈や説明の一つだろう。
  人は歌や俳句を詠んで、感動した瞬間の気持を記録する。右脳の天邪鬼は無常な自然と繋がり、自然の変化の代弁者だ。言葉はむろん絵も数学も他人と共有できる物語として役立つ。

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  近年の宇宙論によると、宇宙(ユニバース)は一つでなく、多数の宇宙がある「マルチバース」だという。宇宙に充満している「ダークエネルギー」のせいで、世の中、周囲の条件や環境は常に時々刻々と変わる。
  地球上の生命はこの重力や磁力があって初めて生まれたものだろう。人は宇宙に存在する規則性や合理性を発見し、その上で生きているのだろう。

  * * * 
  人は物語を作って、生き残る。宇宙や自然界には非日常的でランダム、無意味、無価値で有害な物や歪み、ズレ、ひずみなどが沢山ある。右脳は左脳の物語の中にない事象を捉え左脳に伝える。左脳はそういう事象の中から、人が生きていく上で意味や価値があるものを物語に編集するが、人が変換し翻訳できた物語の量は「ダークエネルギー」に比べたら微々たるものだ。
  勝った試合にははっきりした理由はないが、負けた試合にはちゃんとした理由がある、とプロ野球の野村克也監督はいう。何事も成功より失敗の方が鮮明に記憶に残る。人は成功や勝利や利得の物語が好きだが、成功には秘訣も方程式もない。成功の物語より失敗の物語の方が内容も豊富で、成功に学ぶ事より失敗に学ぶ事の方が多いようだ。

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  どんなに膨大な物語を蓄積しても、押し寄せる巨大な「ダークエネルギー」の波には脆くも崩れ去り、予想や予測、計画や期待のほとんど全ては外れる。無限に生じる災難も崩壊も破綻も未然に防ぎ得ない。
  「君子は豹変す」という。君子の左脳は凡人の左脳と違い、既存の合理性、規則性や確実性の物語に、右脳から時々刻々と伝えられる色々な事象を、臨機応変、君子の左脳は次々に取り入れる、という意味かもしれない。(170807)(7月)

ダークエネルギーと天邪鬼

  「饅頭(まんじゅう)こわい」という落語がある。饅頭は食べたいが、単純に「欲しい」と言っても誰もくれない。「饅頭こわい」と言うと、逆に人は饅頭をくれるという話だ。食べたい饅頭をこわいという人も天邪鬼(あまのじゃく)だが、饅頭をこわがる人に無理に食べさせようとする人も天邪鬼だ。落語は話す方も聞く方も天邪鬼の登場を面白がる。脳に好い効果があるに違いない。
  VSラマチャンドランは左脳は現状に固執する頑固な保守主義者で、右脳はパラダイムシフトを作り出す革命主義者で、「天邪鬼」とも呼ぶ(『脳の中の幽霊』角川書店、第7章)。天邪鬼は、わざと人の願望や期待とは反対の言動をする、人の想像の産物だ。

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  白鳥は白い。「黒い白鳥」がいると言っても、黒い白鳥など定義に反する矛盾と左脳は容易には信じない。従来のパターンと違う事象が伝えられると、よほど緊急かつ重要な情報でなければ、先ず情報を否認し無視し自分の概念を簡単には変えない。この左脳の保守的な癖が物語と周囲の状況との間のズレを広げ、判断ミスの原因になるらしい。
  なぜそんな事になるか。右脳は無意識にボトムアップで情報処理し、左脳は意識的にトップダウンで情報処理するという(Mガザニガ『人間らしさ』インターシフト、第8章)。

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  ズレの例は幾らでもある。宇宙と自然の出来事の九割を支配するという「ダークエネルギー」が働き、地震や津波が起き、山が崩れる。地盤がズレ、歪みが生じ、生態系は変化する。隕石の飛来か気象の激変か分からないが、大昔、北海道にもいた恐竜は絶滅した。残った化石から見て巨大な骨格の持ち主の恐竜がどんな条件で生まれ絶滅したか、人の理解を超える。恐竜の生存の条件と環境との間に修復できないズレが生じた結果、ついに死滅したのかもしれない。
  周囲の状況は時々刻々と変化する。一方、頑迷固陋な人の左脳の物語の改訂(ギアシフト)作業はなかなか進まない。物語がいつも時代や市場や周囲の変化に追いつけず、読み違いやズレが広がるのはこのせいらしい。

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  「時代を読む」とか「空気を読む」とかいう。重要だが難しい。先週七月二日の東京都議戦では新政党が圧勝した。選挙は候補者の物語と時の風潮とのずれの大きさで勝敗が分かれる。
  敏感な右脳が「何かちょっと変だ、違う」という感じを捉え左脳に伝えても、左脳の物語の改訂には時間がかかる。

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  「ツキ」とか「運」とかいう。左脳の物語と外界の変化との関係から生じる。EUからの離脱交渉を控えて英国保守党のメイ首相が総選挙に打って出て敗北した。首相就任直後から、彼女の左脳の物語は成功体験のまま、もはや英国の国内情勢や空気が、トランプ米国大統領を選出した数か月前とも変化しズレていた。その事に気づかず、彼女の「ツキ」が落ちてしまった。
  「夏草や兵どもが夢のあと」(芭蕉)。大会社も破綻する。幹部の経営戦略や見通しが立案した当時は最上の物語とされ「運」にも恵まれたが、その後、状況が一変して、その物語と市場との間にズレが生じ「運」が尽きてしまった。むろん責任は幹部の物語にあり、時代や市場にはない。

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  「ダークエネルギー」は全ての自然現象の源だ。絶えず活動する「ダークエネルギー」の力で、季節も時代も流行も変わる。左脳の物語の衣更えは、なかなか行なわれない。
  世の中、人の思い通りには運ばず、型通りには行かない。「ダークエネルギー」の充満する世界でかろうじて生存を維持している生命は脆い存在だ。人の左脳は将来の不安を和らげ予測や予想を可能にする物語を作り改訂して生き延びる。世界を合理性や規則性、確実性の枠組みで見て、型を重んじる。
  人の願いや期待も夢や物語も、しばしば天邪鬼に邪魔され脅かされ砕かれる。その実現は、天邪鬼が言う事に謙虚に耳を傾け、素直に、時代や環境の変化に合わせ、自分の保守的な左脳の物語を柔軟に改訂して初めて可能な事かもしれない。

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  ネット時代、ほぼあらゆる世界のニュースがネットで見られる。広告の媒体も以前とは激変し新聞やテレビから移る。AI(人工知能)時代、生産はロボットやAIのプログラムの作成が生産で、昔の生産の概念とはだいぶ異なる。時の趨勢や市場の流れに、人の左脳の物語が追いつかず、そのズレ(ミスマッチ)から物価も相場も予測通りに動かず、失業も生じる。
  天邪鬼は旧態依然たる左脳の物語が外界の変化とのズレを知らせてくれる「ダークエネルギー」の貴重な代弁者かもしれない。
  古い時代から現代に至るまで、地球上の出来事が人の意に反して、リスクに直面する時、人は祈りを捧げ、お祓いをする。リスクとの遭遇は、物事を従来の型に嵌めて考えるな、「自分を信用するな」という警告かもしれない。
(170707)(7月)

ダークエネルギとリスク③

   玉、鏡、剣の3種の神器がある。これを右脳に玉、左脳に鏡、前頭葉に剣を当てはめると、人の右脳と左脳と前頭葉の役割分担が分かる。玉の右脳は事象の変化を立体的に映すが、鏡の左脳は物事を平板に映す物語を作る。前頭葉の剣は抑制力として働く。制御されずに振り回したら大変だ。
  玉の右脳は名探偵シャーロック・ホームズよろしく「何か日常と違った事はないか」と絶えず周囲の状況を眺め、今までにない匂い、色、音、形の変化、歪みやひずみや揺れなどの動きを捉え、鏡の左脳に伝える。

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  右脳から次々に送られて来る非日常的な情報を左脳は既存の枠組みで解釈し理解しようと物語に変換する(Mガザニガ『倫理的な脳』紀伊国屋書店、第9章)。
  鏡の左脳は機械的なコンピュータで、投入以上に推測し、一部しか見えない物から全体を推測し、複雑なパターンを認識し自動的に反応するのも不得意だ(Mガザニガ『<わたし>はどこにあるのか』紀伊国屋書店、第3章)。玉の右脳は、外界の不規則、非論理、不合理、不確実な事象を捉える。何を捉えても鏡の左脳が物語に正しく取り入れなければリスクは不可避だ。

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  予想や予測や期待や思惑に先行して物語を作る人の左脳には、過去に遡り、規則性を見出し、他人と同調する「トカゲの脳」に頼り何事もパターン化する悪い癖がある。自らのや論理や合理性や規則性で整理し貯蔵する保管庫だ。
  一方、外界は「ダークエネルギー」という人の目には見えない力で時々刻々と変化する。物語は外の変化に応じて改訂されにくい。新たな変化を自分の物語に簡単には取り入れない左脳は、否認し、無視し、合理化し、作り話を作る(VSラマチャンドラン『脳の中の幽霊』角川書店、第7章)。物語を作る時、左脳は無意識に既存の物語との辻褄を合わせる。右脳から新しい情報が届かなければ「穴埋め」の物語を作る。

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  人はリスクが好きだ。上がると思って買った株価が下がる。同じ価格で同じ株を売った人もいる。予想や予測も外れ、期待や思惑も当たらず解釈も説明も正しくない。リスクは自分の左脳の作る物語が右脳の捉える外界の変化に追いつかず、時勢との間にズレがある結果生じる。物語と外界の変化とのズレが広がれば広がるほどリスクは大きくなる。リスクはズレの修正を迫る警告でもある。損失はズレのコストだ。
  リスクに遭遇したら自分の物語が不完全な事に気づく。原因も責任も自分にあると反省する好い機会だ。リスクは外部の要因で生じるのでなく、自分の脳の中の出来事かもしれない。

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  「このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、てんでなってなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ」(宮沢賢治『どんぐりと山ねこ』)。
  宮沢賢治が言うように、頭の尖っているどんぐりや丸いどんぐり、大きいどんぐりや背の高いどんぐりが一番えらいのではない。
  人の社会でも地位や権力を得た人、金持ちや有名になった人が必ずしも尊敬すべき偉い人ではないということかもしれない。

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   動物では、攻撃の抑制力が厳しく制御されている。雄の犬やトカゲは雌や仔を噛めない。トカゲの例がある。雄の色に塗り替えられた雄のトカゲを別の雄のトカゲの領域(テリトリー)に侵入させる。雄は怒り、侵入した雄に噛みつこうとする。鼻先まで行って、雌の匂いに気づき、噛みつけず転倒する。以後、この雄のトカゲは、侵入するトカゲに嚙みつく前に匂いを嗅ぐようになったという。
  雄の犬やトカゲの方が生命の存続と倫理という点では人の手本かもしれない。抑制力の制御を失うと、自らの欲望や野心が野放しになる。自らを抑制し律する事を忘れ他人に及ぼす迷惑を顧みず、やたらに攻撃するかもしれない。生命の基本は制御だ。制御されない癌やウィルスを生命が最も恐れる。

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  鉄道工事の大事故で鉄棒が頭に突き刺さり前頭葉に重傷を負った後、人格が変わって卑猥な言葉を吐き、衝動的、反社会的な行動をしたフィオネス・ゲージの場合が剣の前頭葉の抑制力の制御を失った典型的な例だ。前頭葉を損傷すると抑制力の制御を失う(Mガザニガ『倫理的な脳』第6章)。
  抑制力も剣の前頭葉に内在している。窃盗、姦淫、殺人など心の中で犯意を抱いても通常は実行しない。抑制力を制御できない時、思い止まらず犯罪に及ぶ。
  前頭葉の認知症の患者も抑制力を失う。抑制力の制御を失うのはリスクの予感もなくなる一種の病気で、いつの世にもいる。
  織田信長からスティーブ・ジョブスまで、古今東西の英雄や成功者の中にも人格障害者がいる。剣の前頭葉の抑制力が制御できず、自分の欲求や野心の達成のために他の事は一切顧みず、それで返って勝ち組になった者たちらしい。人格障害でゲイジは失敗した例だが、JFケネディは成功した例かもしれない(中野信子『サイコパス』文春新書)。
  (170604)(6月)

ダークエネルギーとリスク⓶

  ある日本人医師によると、脳のどこが老化するかで認知症の発症が違うらしい。右脳の老化では人の顔を忘れる。家族の顔も分からなくなる。左脳の老化では言葉を忘れる。左脳が言葉を失い物語が作れないと、外から入って来る情報が右脳だけでは手に負えず「鬱」に陥るという(Mガザニガ『<わたし>はどこにあるのか』紀伊国屋書店、第3章)。
  右脳は現在の周りの情報をできる限り集め左脳に伝えようとするが、右脳からの情報が途絶えると、左脳は「穴埋め」の物語を作る。「大風呂敷を広げる」とか「大法螺を吹く」ともいわれる。右脳と左脳の働きがズレると支障が生じる。
  前頭葉の老化では抑制力が効かなくなる。反社会的行動を平気でする。ルールは無視する。一方通行を逆走する。欲しいと思う物は店員に断りもせず支払いもせず貰ってくるという。

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  なぜ認知症になるか。近年の身体の寿命の著しい伸びに脳が追いつかず、身体より脳の老化が早い人は認知症になるという(Mガザニガ『倫理』紀伊国屋書店、第2章)。内閣府によると、日本人の65歳時の平均余命は2015年には男18・86年、女23・89年だが、1955年には男11・82年、女14・13年だった。日本の65歳以上の人口は2015年の総人口1億2711万人の26・7%、3392万人、60年前は総人口9008万人の僅か5・3%、477万人だった。

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  人は左脳で物語を作る。予想や予測を立て将来の災難やリスクを未然に防ぐためだ。左脳は物語を作る際、過去に遡り規則性や合理性や確実性を見出そうとする。
  人の脳は前に見聞きしたことのある色や形や音、嗅いだことのある匂いに反応する。ローレンス・ファーウェル博士がいう「脳指紋法」(同第7章)だ。
  世界が単一の原理原則で動くという哲学も世界を単純化する左脳の物語の一環だろう。これが裏目に出ることがしばしばある。人の左脳が作る物語と宇宙の出来事の90パーセント以上を占めるという「ダークエネルギー」がもたらす様々な現実とのズレがリスクを生む元凶かもしれない。

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  大昔、人や生物が地球上に誕生し、今なお人や生物が生き続けているのは偶然と幸運の賜物かもしれない。生命は非常に傷つきやすく脆い危ない橋を渡っている存在で、災難や病気やリスクの「ダークエネルギー」の波に翻弄される小舟に過ぎない。時代や環境の無限の変化に対応して、やっと生きているのだろう。
  昔は不可解な力や物は、悪魔や幽霊、妖怪や化け物と称した。合理的な物語を作る癖のある左脳は、悪魔や幽霊、妖怪や化け物も迷信として否定し「ダークエネルギー」の存在も余り気にせず評価もしない傾向がある。

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  逆説的にいえば、文明を発展させればさせるほど災難やリスクに遭遇する度合いは増えるかもしれない。左脳の活動を過信し「ダークエネルギー」の効果を軽視し、物事を合理的、規則的に考える人ほど災難やリスクに見舞われやすいかもしれない。
  人類は長い間「ダークエネルギー」と闘い、克服したかに見えるが、相変わらず「ダークエネルギー」は強大だ。人の目には「ダークエネルギー」は常に歪み、ひずみ、揺れ、割り切れない現象として現われる。円周率πも対数のeも割り切れない。

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  とはいえ、人は意外に内心「ダークエネルギー」を信じている。「胸騒ぎ」も「虫の知らせ」も「縁起を担ぐ」のも「ダークエネルギー」の予感かもしれないと思う。災難やリスクに見舞われないように祈り、お祓いも魔除けもおまじないもする。予想や予測の的中率が数パーセントしかないと知っているからこそ「ダークエネルギー」に働きかけるのだ。祈り、祟りを恐れ、お祓いをする人、迷信を信じる人は、災難やリスクに見舞われにくいかもしれない。
  人は本当はリスクが好きなのかもしれない。当たりそうもない宝くじを買う。競馬ではダークホースを求め、スポーツでも番狂わせを期待する。「理屈抜き」で面白い賭け事にのめりこむ。

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  象がいち早く地震のアルファ波を感知し逃げるように、人より古くから地球に生きている動植物の方が敏感に「ダークエネルギー」を感じ取り、災難やリスクを避けるかもしれない。動植物の方が「ダークエネルギー」の作用を心得ていて季節ごとに花を咲かせ仔を産むのかもしれない。
  人も動植物も自然の規則性や合理性、確実性の上に生きている。「ダークエネルギー」が充満する世界で生命の安全性や存続の可能性は数パーセント程度しかなく、どんな優れた天才の頭脳も、どんなに高性能のコンピュータも把握し集められるデータは全体の数パーセントに限られるかもしれない。どんなに予想や予測、期待が外れても、失敗や挫折、敗北が多くても、人が生き続けるには左脳の作る物語は不可欠な努力だ。不合理、不規則、不確実な災難やリスクを引き起こす「ダークエネルギー」との闘いは永久に続くに違いない。(170508)(5月)

ダークエネルギーとリスク

  映画「ベニスに死す」の監督ルキーノ・ヴィスコンティは映画で用いる宝石箱の中に数億円の価値がある本物の宝石を入れるという。宝石そのものは映写しなくても、宝石が本物かガラス玉か画面から分かるらしい。宝石箱を持ち運ぶ俳優の仕草も微妙に違うという。

  映画「東京の人」の監督小津安二郎も映画の中で使う屏風は国宝級の本物を借りて来るという。屏風が本物か偽物かで俳優たちの態度も変わる。映画は疑似体験だが、映画を見る人は宝石や屏風が本物かどうかを画面から感じ取るらしい。

  「俳優はオブジェ」だと俳優の中井貴一氏はいう。小津映画にも度々出演した笠智衆は科白(せりふ)が棒読みで、演技も少々ぎごちないが、オブジェとして優れていた名優だという。俳優やテレビタレントの仕事は大変だ。自分を世間の目にさらし、素材として自分が単なる石ころかガラス玉か本当の値打ちが見透かされる。顔が美人でもイケメンでも、どんなに演技や科白が上手でも、人の目は誤魔化せないらしい。

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  「文は人なり」という。文も絵も書も、書く人の本性が無意識に外に表われる。なるべく隠しておきたい本心も暴露される。文や絵や書の姿や形、色や勢いから目に見えない、いわゆる「ボディランゲージ」を人は感じ取るのかもしれない。

  言葉も額面通りには伝わらない。額面通りに受け取る人も少ない。言葉にできるのは感情や思想のごく一部にとどまる。会話でも、言葉以外の顔の表情や手振り身振りなど「ボディランゲージ」に注意を払う。電話でも一番物を言うのは声音や口調、語気かもしれない。

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  3月の大相撲大阪場所で劇的な逆転優勝を果たした新横綱稀勢の里は初日から12連勝したが、13日目に横綱日馬富士に敗れて大けがをし、14日目の横綱鶴竜とは相撲にならず連敗した。優勝インタビューで何気なく「見えない力」を感じたと言った。「見えない力」とは「ダークエネルギー」かもしれない。人体も自然の一部だと思えば、目には見えない自然の「ダークエネルギー」が人に作用してもふしぎはない。

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  なぜ経済の動向や選挙の予測や相場の見通しは外れるのか。集められるだけのデータを綿密に分析し想像力を駆使して物語を作り、出来事の解釈や翻訳を試みるが、所詮、人の把握できるデータ自体が事象の数パーセント程度でしかない限界がある事を考えると、予想や予測や見通しの正確さや的中率が数パーセント程度なのは無理からぬ話かもしれない。

  相場のチャートを見て、過去の推移から将来の動きを何とか推察するのが一般的だが、優れた投資家は相場のチャートから凡人の目には見えない一種のボディランゲージを見て取るのかもしれない。チャートのボディランゲージは相場を動かす「ダークエネルギー」を顕在化させた自分なりの方程式の類(たぐい)かもしれない。

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  人は目で見るのでなく脳で見るという。目の前にある物が見えない人もいれば、目に見えない物を感じ取る人もいる。人の脳がキャッチできない光や音を動物の脳はキャッチできるという。人体も脳も自然の一部とすると、人体や脳について人が認識できるデータは数パーセントに過ぎず、見る人の脳の受容器が「オン」か「オフ」かによっても全く違うかもしれない。

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  なぜ災難の予測やリスクの予想が難しいか。災難やリスクは宇宙の出来事の90パーセント以上を占める「ダークエネルギー」の仕業と考え、成功も失敗も「ダークエネルギー」の所産と考えれば理解できる事かもしれない。世の中、至る所、災難やリスクに囲まれている。その中で生命や健康を保ち、努力を実らせ成功に繋げる確率は偶然や僥倖と同じ数パーセントに過ぎないと思う方が無難だろう。

  宇宙の大きさは無限で、一切は割り切れない。1日は24時間でなく、1年も365日ではない。「ダークエネルギー」が溢れる中で人は端数を切り捨て、閏(うるう)日や閏年で調整して生き延びて来た。事象のデータの数パーセントしか人には認識できなくても、それらを組み合わせ解釈し翻訳し様々な物語を作って来た。それでも多くの災難やリスクに見舞われる一方、時には「自分の力以上の力」を感じ、天の啓示を受けることもある。

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  自然は浪費し、無駄をし、著しく効率が悪く見える。おびただしい数の花粉を撒き散らしても、光や水や栄養の環境に恵まれず、外敵に襲われ、土中に埋没してしまうリスクは甚大だ。無数の花や実を残す者の子孫だけが生き残ったことを植物も動物も進化の過程で経験し熟知している。確かに非効率だが、保険としては仕方ない自然の行為だろう。

  世の中、圧倒的に不合理や不規則、不確実な事が多い。従来、災難やリスクは例外的に生じると考えてきたのだが、実は人が考える合理性や規則性、確実性の方が変則で、地球上の事象の数パーセントに過ぎず、頻繁に起きる災難やリスクの方が本則、と考える方が当たっているかもしれない。(170404)(4月)

情報デジタル化とリスク③

 情報デジタル化の現代、災難やリスク、事件や事故が起きるたびに新聞もテレビも解説や説明の物語で賑わう。物語の内容の正しさはどっちでもいい。とにかく速やかな解説や説明の物語を求める。人は物語がなければ物事の納得も理解も難しく落ちつかないのかもしれない。相場の動きも数字とチャートで示される。そのチャートの解説や読み方を直ぐに求める。

  「ソフトは無料、マニュアルは1万ドル」という古いジョークがあるという。これはジョークではないらしい。自分のDNAの配列が分かっても遺伝子の配列の説明や解説かなければ意味が分からない(ケヴィン・ケリー『インターネットの次に来るもの』NHK出版、第3章)。

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  データがあっても、マニュアルがなければ意味も使い方も分からない。
その気になればデータはどこにも幾らでもある。数字や言葉だけではない。色も音も自然現象もデータになる。データを集め編集し物語にして初めて意味が分かる。音を音楽として聞くには作曲が必要と同じかもしれない。天空の星々から星座を描き、暦(こよみ)を作る。宇宙や地球の様々なデータから、歴史や神話、科学や文学が生まれるのかもしれない。

  物語から宇宙や地球のデータを探し出すこともできる。日本列島は火山列島だ。寺田寅彦は『古事記』の「八俣(やまた)の大蛇(おろち)」の「身一つに頭八つ尾八つあり」という物語を、火山から噴き出す溶岩流と解釈する(『神話と地球物理学』)。

  * * * 
  「災害は忘れたころに来る」という。災難やリスクの予測や想定が外れるのも、出来事は、95%を占めるダークマターやダーク・エネルギーで起きるからだろうが、愛国心や郷土びいきに訴える物語を喜ぶように、人は自分に都合が好い説明や解説の物語が好きなのだ。数々の間違いは独りよがりの物語に基づくことが多いという。

  人が生き延びるための物語は、人が生きる方便だから空想でも仮想でもいい。唯一絶対のように人を中心に置く。鳥や虫や魚や獣その他の生物はそれぞれの自然環境との相互作用の経験や解釈に基づいて物語を作って生きているのだろう。人だけが文明を発展させ情報デジタル化を進展させた。

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  20世紀は映画の時代だった。映画で、楽しみ、悲しみ、悔しい思いも共有した。見知らぬ国々を旅し疑似体験もできた。映画の中でアルプスの山々の景色を見て、美しい女優の姿や俳優の表情を見て、心を躍らせた。

  「仮想(バーチャル・リアリティ)は経験を増す」という。戦場、深海、火山という生身の人がいけない場所に行ける(『インターネットの次に来るもの』第9章)。鉄腕アトムのように空を自由に飛ぶ経験もできる。もともと物語も映画もテレビも仮想で疑似体験だ。疑似体験やシミュレーションは実際、航空機のパイロットや車のドライバーやスポーツの訓練やゲームに活用されている。

  昨年3月韓国の囲碁のイ名人がグーグルが開発した「アルファ碁」に負けたと報じられた。コンピュータの実力はここまで来ている。だがこういう訓練さえしていれば人との真剣勝負にも大丈夫、実際の災難やリスクに直面しても平気とまでは言い切れない。

  経験とはいえ、仮想はあくまで仮想で、その経験は「フィルター・バブル」(同第7章)になりかねない。歯止めの効かないバブルに陥りやすい危険がある。情報デジタル化は物理的な制約がない。空中の情報を空っぽの容器で捉える。実体を伴わない演説だけで株価が暴騰する。バブルのリスクはますます大きくなる。

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  昨年ノーベル賞に輝いた大隅良典博士がメカニズムを明らかにした「オートファジー」は生命体の根幹の細胞が持つ素晴らしい働きだ。オートファジーは細胞のタンパク質が過剰な時は自食し調整し、飢餓に直面してタンパク質が不足な時はタンパク質を再生するという。オートファジーを持つ者だけが長い欠乏時代に生き残ってきた。オートファジーは生命にとって不可欠で、オートファジーの働きなくして何十万年の欠乏時代や飢餓を乗り越えられなかったに違いない。

  何でも手軽に手に入る潤沢社会ではこの大切なオートファジーの機能が減退するらしい。情報デジタル化の時代、頻繁にバブルが生じやすい。バブルは怖い。後遺症が残る。抑制力が働かなくなる。幾多の飢餓の苦境に助けてくれたオートファジーも効かなくなる。

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  地球で生きる者は鳥でも虫でも、常に自然環境の変化との相互作用を通じて生きている。大昔の人が始めた農耕牧畜は自然環境との相互作用で、人類の進化に寄与してきた。仮想との相互作用は真の体験には繋がりにくい。

  21世紀は情報デジタル化がもっと進むのは間違いない。どんなに進んでも、匂いや、旨い、まずいの味の感覚や直観などは生身の人でなければ実感も掌握もされにくい。RシラーとGアカーロフがいうように今の時代の需要は本当の需要でなく「肩の上の猿」の需要かもしれない。そう考えると、現代のリスクは大小バブルの頻繁な到来かもしれない。(170310)(3月)